2019年5月13日月曜日

【春の雪】第18話 最後の日【オリジナル小説】

■あらすじ
春先まで融けなかった雪のように、それは奇しくも儚く消えゆく物語。けれども何も無くなったその後に、気高き可憐な花が咲き誇る―――
※注意※2009/01/24に掲載された文章の再掲です。タイトルと本文は修正して、新規で後書を追加しております。

▼この作品はBlog【逆断の牢】、【カクヨム】、【小説家になろう】の三ヶ所で多重投稿されております。

■キーワード
青春 恋愛 ファンタジー ライトノベル


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■第18話

第18話 最後の日


 ――時が経ち、わたしと一非君の看護生活がやがて半年を過ぎた、或る冬の日の事だった。
 一非君は、声までも失った。何も喋れず、何も見えず、そして……何も、動かせず。
 そういう人形なんだと言われても、何ら不思議を覚えない、生気を感じさせない、全く身動ぎも出来ない体になっていた。
 それでも、一非君は生きていた。必死にわたしの声に耳を傾けて、時折微笑んだり、口を小さく動かしたり、……涙を流したり。
 わたしも精神が限界にきて、何度も一非君のいない所で涙を流した。心が壊れそうになる事が、一度や二度で済まない位に、しょっちゅう起こった。その度に一非君から逃げて、嗚咽を漏らした。
 兆さんも、一非君のオムツを替えたり、体を洗ったりと、わたしに出来ない一非君のお世話を毎日している。……でも、憔悴がもう隠しきれない程に、表面に浮上してきていた。
 星織君は毎日でも無いけれど、一非君の様子を見に来て、その度に深刻そうな顔をして、何も言わずに立ち去っていく。……何をしているのか分からないけれど、決して、お見舞いと言う訳ではなさそうだった。
 そうして間も無く春がやってくると言うその日。わたしは一非君の部屋で、一非君の傍で、ずっとその面影を見つめていた。
「…………」
 もう何も紡がれる事の無い、一非君の声。
 一切の表情が刷かれる事の無い、一非君の顔。
 全く動く事の無くなった、一非君の体。
 わたしを見る事はもう無い、一非君の瞳。
 ……そのどれもに異常が無く、健康体だと言うのに、どれも機能を果たしていないと言う、まるで人形めいたその肉体。
 わたしはそれを見つめていた。わたしにもう何も返してくれない、その姿を。
「……一非君」
 もう聞こえているのかすら定かじゃないのに、わたしはポツリと声を掛けていた。
 澄んだ、声だった。
「わたし……一非君に出逢えて、本当に嬉しかったです。一非君に出逢うまで、わたしずっと自分の世界に閉じこもってたんです。……あの時一非君に出逢ってなかったら、わたしの世界は閉ざされたまま、終わってたと思います。だから……一非君は、わたしの世界を変えてくれた……わたしにとっては、……わたしの中では、いつだって救世主なんです……っ。……それは、今も変わりません。だから……お願い、頑張って……っ」
 涙が込み上げてきて、思わず顔を持ち上げたが、一瞬間に合わず、一筋の涙が頬を伝った。
 すぐに涙を拭って、努めて明るい顔をして、一非君を見据える。
「わたし、待ってるんです。いつか……いつか、一非君が目を覚まして、わたしの許に来てくれる、って……。一非君なら、絶対に助けに来てくれますよね……? わたし、一非君が来てくれるなら、ずっと待ってます。だからお願いです……元気に、なって下さい……っ」
 一非君は、虚ろな眼差しを虚空に投げたまま、何の反応も示さなかった。
 ……分かっていた、分かりきっていた反応に、わたしは何も続けなかった。ただ、その姿を見て満足していた。
 ――ふと気づいて、わたしはカーテンを開けるためにベッドを回り、窓を開けた。麗らかな陽射しが部屋に差して、暖冬と言われていただけあって、少し早い春の風が部屋を駆け抜けていった。
 髪を押さえて窓から空を見上げると、――澄んだ青空が高く、広がっていた。
「――――……ごめんな、咲結」
 ――それは、本当にささやかな、わたしの心を掬い上げるような、声だった。
 振り返らなくても、分かった。その虚ろな眼差しはもう向けられる筈が無いと分かっていたのに、それが自分を向いていると、刹那に悟った。
 さっき堪えていた熱い感情が込み上げてきて、咄嗟に瞳が潤んだけれど、わたしは構わず振り向き、――一非君と眼を合わせた。
「――一非、くん……っ」
「……ごめんな。俺、誰かにこんなに愛されたの、初めてだ。なのに、……何も返せない内に、消えちまうみたいだ」
 穏やかな、凪いだ水面のような眼差しで、わたしを見つめる一非君。
 そこにはもう、何の恐怖も感じられなかった。――ただ、諦念が、浮かんでいた。
「本当に、ごめんな。俺、もっと咲結の傍にいたかった。ずっと見守っていたかった。一生面倒見てやりたかった。……でも、こんな事言ってたら、お前また泣いちゃいそうだよな」
「……そんな……嫌です、一非、くん……っ」
「……だから、これで最後にする。俺、お前から一杯、幸せを貰ったからさ、今度はお前の番だ、咲結。――絶対に、幸せになれよ」
 ニッコリと、一非君が微笑む。
 ――それはまるで夢の物語だった。
「待って!!」
 わたしの声なんて、もう届く筈が無かった。
 それでも叫んでいた。心より、胸を裂かんばかりに、声を迸らせていた。
 ――そう、確かに何の予兆も無かった。
 一非君は有りっ丈の優しさを詰め込んだ微笑を浮かべると、
 何の前触れも無く、何の余韻も残さず、
 ――わたしに何も言わせる事無く――
 わたしの前から忽然と、……姿を、消した。
「一非……くん……?」
 ベッドには、もう何も残っていなかった。彼の匂いも、熱も、痕跡と言うモノが一切。
「うそ……」
 ただ――虚無。
「いや……」
 完璧な形の、消滅。
「いや、そんな、いや……っ」
 存在と言う名のあらゆる証拠の、消失。
「――――いやあああああああああああああああ――――――――――――――ッッ!!」
 ――そうして、
 間も無く春が訪れる、冬の或る日。
 何の予兆も感じさせずに、一非君は、――――消えた。

◇◆◇◆◇

 数週間が経った。
 雪が殆ど残らず融けてしまった春の日。
 わたしは絶望に打ちひしがれたまま、無気力な日々を送っていた。
 兆さんの世話になったまま、わたしはただ一非君の部屋で無気力に佇んでいる時間が多くなった。
 わたしの瞳に入っていたあの大きな存在が失せた今、何も捉える事が出来なくなっていた。
 ただただ虚無感が胸に去来し、それ以来、何も考える事が出来なくなっていた。
 死にたい、とは思わなかった。ただ今は、何も考えたくない。何もしたくない。
「……一非、くん……」
 彼は今、世界に忘れられた。でも、――わたしは憶えている。兆さんも憶えているし、星織君も、きっと……
 たったそれだけ。たった三人にしか記憶されていない、世界からあらゆるモノを剥奪されてしまった、一非君。
 生きていた証明も、これからの人生も、何もかもが世界の痴呆によって奪われていく。
 ……逢いたい。
 一非君に、逢いたい。
 ……でも、もう二度とその姿を捉える事が無ければ、下手すると思い出す事すら難しくなるかも知れない。
 記憶の中の一非君が薄れていく事だけが、今、唯一の恐怖だった。
 だから何も考えたくない。考えれば考える程、一非君を忘れてしまいそうだから。
「――咲結ちゃん」
 不意に掛けられた声に、億劫に顔を持ち上げると、穏やかな表情の兆さんが部屋の戸口に立っていた。
 わたしは自身の腑抜けさに眼が合わせられなくて、視線を床に伏せながら、
「……済みません、今は、ちょっと……」
「今日は簡単に炒飯を作ったんだ、冷めない内にどうぞ♪」
 お盆に持って運んできた兆さんは、わたしの前にお盆を置いて、ニッコリと、柔らかく微笑んだ。
 ――その仕草が、わたしをどうしようもなく苦しくさせた。
「……兆さんは、嫌にならないんですか」
「うん?」
「どうしてそんな平気でいられるんですかっ! 一非君が消えたんですよ!? もっと、悲しんだって……っ!」
 不意に激情に駆られて熱いモノが胸の内から込み上げてきて、急き立てられるように暗い衝動を吐露していた。苦しくて、切なくて、言葉にならない感情が胸に渦巻いていた。
 兆さんは一瞬、困った風な表情を浮かべて、やがて何かを決意したかのように、わたしの隣へやってきて、――床に腰を下ろした。
「……お父さんだって、悲しくない訳じゃないよ。何せ、これが初めてじゃないんだから」
「あ――――」
 消えた一非君の、お母さん……それは、兆さんの……
 すぐに察し、わたしは慌てて謝ろうと口を開けたが、兆さんはそれを先回りするように、わたしの唇に指を添えて、発声を遮った。
「……でもね、だからこそ、お父さんは挫けてなんかいられないんだ。……咲結ちゃんは、言われなかったかな? 言われたけど、まだ気づいていないのかな? 一非も、……彼女も、お父さん達に何を望んでいたかな。自分がいなくなった事を延々と悲しんでくれなんて、少しも望んではいないと思うよ」
 穏やかな、日溜りのような落ち着いた声音で、兆さんは言葉を紡いだ。
 わたしはそれを聞く内に更に胸が苦しくなって、込み上げる感情に言葉が痞える。
「……ここには、一非君も、一非君のお母さんもいないんですよ……? それでも、生きている意味が有ると思いますか……?」
「意味とか、価値とか、そんなの気にしてどうするんだい? 咲結ちゃんの人生が、一非がいないと意味が無いって、どうして分かるんだい? あれが有ったから良い人生だった、これが無かったから悪い人生だった、そんなの分かる訳が無いじゃないか。人生なんて、最後まで楽しんだ者勝ちなんだよ」
 ぐ、と胸に痞えた衝動は、今や何のつっかえも無く飛び出る。
「……一非君が消えたのを、それさえもあなたは楽しめるんですか……っ!」
「そうじゃないよ。……ただね、意味や価値に縛られて、何も出来なくなるよりか何倍もマシだって事。誰も、君がいなくなるのを望んでなんかいない。ただ、生きていて欲しい。それだけでも良いと思うんだ。現に本人が気づいていないだけで、周りは生きて欲しいって想ってる筈だよ」
 何を見ている訳でもなく、兆さんの視線は虚空に投げかけられていた。……まるで、そこに眼に見えない何かがいるかのような……そんな、仕草だった。
 わたしは励まされてるのだと理解しても、どうしても受け入れられなかった。
「……そう言われても、わたし、一非君がいない世界で、生きていく自信が、無いんです……」
 素直に声援を受け止められない、曖昧な拒絶を発しても、兆さんの優しげな応答は変わらなかった。
「無理に頑張らなくたって良いんだ。偶には俯いたって良いんだ。それ以上に何かを望むのは、何かを望める状態になってからだよ。今はただ、生きる事を精一杯すれば良い。お父さんは、ただ生きていてくれるのを望んでいるんだから」
 それと、と兆さんは更に言を継いだ。
「どんな絶望に有っても、どんな嫌な事が有っても、それでも今、生きているのは、きっと自分の力だけじゃない筈だよ。……確かに、一非は君にとって掛け替えの無い人だったかも知れない。でも、周りにはまだまだたくさんの大切なモノが在る筈だよ」
 それを、見つけられると良いね。そう、兆さんは締め括った。
 ……わたしは、とても惨めな気分でその言葉を聞き、静かに頭を垂れた。
 兆さんはぽん、といつも一非君がやるように、わたしの頭に手を載せて、
「――そうだ。これを渡そうと思ってたんだよ」
「……? 手紙、ですか……?」
 兆さんが取り出したのは、どこにでも売っていそうな封筒だった。
 それを手渡して、兆さんは小さく吐息を漏らすと顔を近づけ、――囁いた。
「――一非から」
「!」
「……一非、君がいない間に、元気な間に書いて、お父さんに渡していたんだよ。……お父さんは中に眼を通してないから、どんな内容かは知らない」
 ぽん、と再び頭に手を置かれ、更に優しく撫でられる。
「でも、……きっと元気になるようにって、一非は願ってると思うよ?」
「……」
 茫然とその封筒を見つめていると、兆さんが立ち上がって部屋を出て行くところだった。
「――あ、あのっ」
「うん?」
「……ありがとう、ございます」
 きょとん、とした顔で振り返った兆さんは、やがてはにかむように笑むと、「どういたしまして♪」と囁くように告げると、部屋を立ち去って行った。
 静かになった部屋で、わたしは暫らく戸を見つめていたけれど、……やがて封筒に視線を落とした。
 茶色い、洒落っ気の感じられない無機質な封筒。宛先も宛名も無い。わたしはその口を破り、中から便箋を引き出した。
『咲結へ』から始まる文章を見つけて、思わず胸が高鳴り始めた。
『  咲結へ
  これを読んでるってことは、俺はもうそこにいないんだと思う。
  また泣いてないか? 俺がいなくなっても元気にやってるか?
  俺は咲結が泣いてないかとても心配だ。
  もし咲結を泣かせるような奴がいても、俺はもうぶっ飛ばしに行けないから。
  咲結を慰めに行くことも、頭をなでることも、励ますこともできないのが、辛い。
  何より、咲結にもう会えないことが、俺には耐えられない。
  だから咲結、無責任な言葉だけど、俺にはこれしか言えない。
  がんばれ! ……なんて無責任なことしか言えない。
  俺はただ、咲結に生きていてほしい。
  俺がいなくなってもずっと、生きていてほしい。
  それがおまえにとって苦痛だとしても、俺はおまえに生きていてほしいんだ。
  ただのわがままかもしれない。
  でも俺は、咲結が生きているだけで、きっと安心できる。
  もし俺のことを本当に思ってくれてるなら、生きてほしい。
  これは俺からの最後のわがままだと思ってくれたらいい。
  後は、咲結の意志次第だから。
  俺は咲結が見えない所で、ずっと祈ってるから。
  おまえは一人じゃない、俺がいつも見守っててやる。
  だから、精一杯生きてくれ!
  ずっと、あの可愛い笑顔を見せていてくれ!
  俺のことなんか早く忘れて、新しく好きな奴を見つけて、そいつに泣かせてもらえ!
  俺以上の男なんて、どこにでもいるさ!
  だから、負けるな!
  おまえはやればできるんだ、くじけても、泣かされても、最後までがんばれ!
  俺は、いつまでも咲結のことを見守ってるから!
  一非』
「一非君……っ」
 いつの間にか読んでる内に瞳が潤み、雫が便箋を汚していた。
 深い愛情を感じて、熱い感情が止まらなかった。堰き止めるモノが完全に壊れて、わたしはその場に蹲って激情に身を任せた。
「うぐ、ぁ、うわあああああああああ、あ、ぁ……!!」
 一非君はどんな想いでこの手紙を綴ったんだろう?
 一非君はどんな想いで最期までわたしと付き合ってくれていたんだろう?
 思うだけで、胸がキツく締めつけられて、苦しくて息も出来なかった。
 なのに、今のわたしはどうだ? 過去に囚われて動けなくなってるだけで、ずっと一非君を見つめていると勘違いして……
 バカだ、ってすぐに気づいた。
 一非君は、昔のわたしなんて心配していない。寧ろ、昔のわたしになる事を、心配していた。
 昔みたいに、ただ悲しみに囚われて、勝手に悲劇のヒロインを演じて、沈んで……
 剰え、死のうとさえ考えてしまっていた。
 そこに――わたしが逝く先に、一非君がいる筈なんて、無いのに。
「一非君はっ、わたしの大好きな人なんですっ、それは今でもっ、ずっと変わりありませんっ! わたしっ、一非君の事は忘れたりしない、絶対忘れないっ! いつか好きな人が出来ても、お婆ちゃんになってもっ、一生忘れないからっ! 一非君はわたしの一番大切な人だから……っ、絶対に、忘れないからっ、絶対に……っ!」





 瞼を閉じれば、すぐに浮かんでくるその顔が、いつもは寂しげに見えたのに、今日だけは違った風に見えた。

 どこか――安心したように、笑んだように、映った―――


【四章】 迎える終焉/忘れない想い――――【了】

【後書】
 咲結ちゃんのこの慟哭を綴るために、ここまで綴ったと言っても過言ではありません。
 今読んでも泣きましたよね…胸がキュゥキュゥ締め付けられるこの感情を得たいがために、綴った、読んだ、と言うべきでしょうか。
 さてさて、次回でいよいよ最終回です。長かったような、あっと言う間だったような、純愛の物語の結末、どうか見届けてあげてください。

2 件のコメント:

  1. 更新お疲れ様です。

    バスタオル正解でした。

    ついに消えてしまった一非君。
    わかっていても容認できるものでは無いはず。
    最後有りっ丈の優しさを詰め込んだ微笑を残していなくなった彼…
    押しつぶされそうです。

    第16話でちょっとだけ見えたような光はなんだったんだろう?
    次回みつけられるかな?

    さて、これから最終話挑戦してまいります。
    少しお時間いただきます。

    今回も楽しませて頂きました。
    次回も楽しみにしてます。

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    1. 感想有り難う御座います~!

      寧ろバスタオルで足りましたか…! バスタオル何枚使ったんだろう…! って心配しておりました…!

      抗えなかった、と言いますか、予定通り、刻限通り、彼は消えました。
      最後のシーンでの微笑はこれ、思い出す度に胸がキュゥキュゥに締め付けられる事と思います…

      その光は、たぶん最終話にて、きっと一つの結末に繋がる光だと思います。
      きっと、きっと見つけられます。

      最終話挑戦、ぜひご無理のなさらぬように…!
      ゆっくりで構いませぬゆえ、わたくしものんびりお待ちしております…!

      今回もお楽しみ頂けたようで嬉しいです…!
      最終回もぜひぜひ! お楽しみに…!

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